<麻枝准流作曲技法>考察

  • はじめに

 タイトルの通り、この記事では<作曲家:麻枝准>の作曲技法についての私的考察を記す。
 予め断っておくが、ぼくは音楽に関して「素人」である。むろんプロではないし、趣味の範囲では作曲活動も行っているが、音楽大学やそれに類する専門教育機関に所属していた経験もなければ、著名な音楽家に弟子入りしている、などということもない。それでも常識程度の音楽理論の知識は持っていると自負しているが、これから書くことについては、あくまで「素人の戯言」だと思って読んでもらえれば幸いだ。



  • 作曲について

 「作曲」とは、その名の通り「曲」を「作る」行為であるが、では「曲」とは、一体どのように定義されるものなのだろうか。ひとまず、wikipedia先生にたずねてみたところ、

 ――楽曲とは、音楽の、続けて演奏されるひとまとまりのこと。
  
 とある。更に踏み込んで「音楽」とは何か、とみてみると、

 ――音楽は、人間が組織づけた音である。音楽は、音のもつ様々な性質を利用して、それを時間の流れの中で組み合わせて、感情や思想を音で表現することができる。

 と記されている。なかなかにわかりやすい。
 つまり、作曲とは、端的に言えば<音を組織づける行為>である。
 この記事においては、「作曲」という行為を以上のように定義し、話を進めることとする。



  • 基本的な作曲の方法について

 先述したように、作曲とは音を組織づける行為である。そう言ってしまえば非常に単純なことだが、これまでの人類の歴史においてどれほどの数の楽曲が作られてきたか、まったく想像に余りある。
 似通っている楽曲も山ほどあるだろうが、それほどまでに莫大な楽曲のバリエーションを生み出している要因は、使用される「音」に、というよりは「組織づけかた」にあると思われる。
 というのも、特に近現代音楽において、使用される音は基本的には「12個」しかない。超簡単に言ってしまえば「ドレミファソラシ」とそれらにシャープやらフラットやらが付いたかたちだ。(詳しくはwikipedia:十二音技法などを参照されたい。)
 無論、その「音」を演奏する「楽器」にはやはり莫大な数がある。しかし、かなり大雑把な話ではあるが、基本的に、あらゆる楽曲はひとつの音色のみを用いても演奏し分けることが可能である(打楽器によるリズムのみで構成される曲なども存在するが、ここでは無視する)。それこそ、ピアノが一台あれば無限に楽曲を演奏することも可能だろう。
 つまり、ある音をどれくらい伸ばすか、どんな音と組み合わせるか、などといった点で楽曲の差異は生まれ、また、作曲家自体の個性もそこに見出すことが出来る。
 これについての私的雑感なのだが、音をどう組織づけるか、というのは、かなり経験に依存していると思われる。ここで言う経験とは、それまでの人生でどのような楽曲を(意識的であれ無意識的であれ)耳にしてきたか、つまりは音の「どのような組織づけられかた」を耳にしてきたかということだ。
 超単純化した例を挙げると、「ドの次にレが来る」メロディと「ドの次にミがくる」メロディを聴いたことがあれば、「ド」に組織づける音の選択肢として、「レ」と「ミ」を得ることが出来る、という具合だ。そして実際には、これが遥か高度に複雑化されているわけである。
 そういうわけで、<麻枝准流作曲技法>とはつまり、だーまえがどういう風に音を組織づけているのか、ということであり、それについての私的考察がこの記事の本旨である。



 まず、麻枝准という人間について。この記事を目にするようなひとなら知っているであろうことだが、一応軽く触れておく。
 ビジュアルアーツ傘下のゲームブランドKeyに所属し、ゲームシナリオの執筆、またBGMや主題歌、挿入歌などの作詞作曲をも手がけるマルチなクリエイターである。近年はテレビアニメ「Angel Beats!」の全脚本を手がけ、また、OP及びED主題歌の作詞作曲、劇中に登場するバンドの楽曲の全作詞作曲までこなし、本編BD/DVD、関連音楽CD共にかなりの売り上げを記録し話題になった。また、本人も認めるところの「音楽キチ」である。月に数十万円にものぼるという大金をはたいて音楽CDを買い漁り、移動中や仕事中など、ほとんど一日中音楽を聴いて生活しているとのことだ。「だーまえ節」などと言われる彼独特のソングライティングのセンスは、先ほど話したように、この滋養に満ちた音楽体験によるところも大きいだろう。
 と、さらっと流してしまったが、<麻枝准流作曲技法>を語る上で、この「豊富な音楽体験」というのは欠かせない要素である。非常に多種多様な「組織づけかた」を耳にしてきた、というだけでも、作曲をするうえではかなり大きな強みになるからだ。
 それから最も重要な点、これもファンなら知っていることかもしれないが、彼の作曲の仕方は他人と大きく異なっている。
 「どのようにして楽曲を生み出すのか」――多くの作曲家たちの言うには、「空からメロディが降ってくる」であったり、「楽器を演奏しているとフレーズを思いつく」であったり、「歌詞の持つ響きがメロディを呼び寄せる」であったりと、基本的に、「自分で考え」て楽曲を生み出している。しかし、麻枝准はそのどれとも異なっている。
 では一体どのようにして楽曲を生み出すのか。本人の発言によると――以下は『麻枝准の殺伐RADIO 第1回目』からの引用である
D24:46〜 

――「自分にとって作曲と言うのは、生む作業ではなく拾い上げる作業」

――「とりあえずデタラメにメロディを並べてみる。ベタなコードに乗せて。自分ですら再生するまでどんな曲になっているのかわからない、という状態で再生してみて、ここをこうすればすごく良いメロディになるんじゃないか、という部分をひたすら修正していく」

――「素人でないと出来ない方法。プロは譜面を見ればどんなメロディかわかってしまうから」

――「偶然に頼り切っているので、本来なら自分から生まれるはずのない、いわば自分の才能を超えたメロディまで生まれることがある」

 など、大雑把ではあるが要点を引用した。なるほど、常識的に考えたら、誠にキテレツな作曲方法である。しかし、この方法で彼は数多くの名曲を生み出してきた。そこにどのような秘密があるのか。もしくは、ないのか。
 彼の言うとおり、並みのプロであれば譜面を見れば「それがメチャクチャな音の並び」であることはわかるだろう。そして、音楽理論的にも破綻したそれを再生することを躊躇うだろう。そこを麻枝准は超える。彼の言うとおり、ある意味で「素人」として居続けているからだ。
 彼は「偶然に頼り切っている」と言う。それは半分は正しいかもしれないが、半分は間違いである。
 シーケンスソフト上へ無秩序に並べられた「音の羅列」、それ自体は確かに偶然による産物に他ならない。しかしそれらを「良いメロディ」として秩序づけるのは、他でもない麻枝准という音楽」そのものなのだから。
――「麻枝准という音楽」と表現したが、ぼくは「ひとりの人間はひとつの音楽である」と考えている。それはこれまで何度か言ってきたように、当人の音楽経験によりつくり上げられてきたものであり、どのような音楽を生み出すのか、また、どのような音楽を「良い」と感じるか……つまりは、まぁ「好み」と言っていいのだが、もっと格好良く言いたいのだ。しょうがない。
――と、話を戻すが、ここで重要なのは、「無秩序な音の羅列に秩序を与える」という行為自体に彼の音楽が賞賛される原因があるのではない、ということだ。
 それでも、当人の想像を超えたものが生まれ得るという点でこの手法はかなりのアドバンテージを持つ。また、常人を遥かに上回るであろう規模の「音楽」を抱えている彼にとって、その多様性をより引き出すことの出来る手法でもあり得る。つまりは、麻枝准」に最適化された<作曲技法>と言えよう。
 しかしまぁ、なんてことはない。端的に言ってしまえば、だーまえが「良い」と思ったもの>だから評価されているのである。つまり、評価されているのは麻枝准という音楽」だ。
 また、あくまで自身の作品のクオリティに拘り決して妥協しない。本当に「良い」と思えるものだけを提供し続けるクリエイターとしての麻枝准が評価されている、と言っても良いだろう。
 


  • おわりに

 これだけ書いておいて、結局は、だーまえすげぇ!としか言えない自分に愕然としつつ、一度まとめてみて、この作曲技法はぼくに出来るものなのだろうかという疑問も生まれ、当初の目的はどこへやら、まぁ書いていて楽しかったし良いかとも思う。とりあえず、この方法を参考に、いちど曲を作ってみよう。
 彼の言う通り、これは「素人」であるが故に成せる方法と言って良い。何が言いたいかというと、この記事を読んでくれたあなたも、適当に音符を並べて「自分の音楽」はどういうものなのか、と少し挑戦してみるのも面白いだろう。