「――ねぇ。あなたは、運命を信じる?」

 夕暮れどきの教室。窓際の席に独り頬杖をついて、田園と少しばかりの民家が広がる地平線へ堕ちていく夕陽を眺めていた。時計の針は17時。いつもならもう予備校へ到着しているはずの時間だった。今日は19時を過ぎるまで講義はない。だからそれまでは自習室を利用して自学に励む――というのが模範的な受験生の姿だろう。だけどぼくは、ここ数ヶ月そう出来ずにいた。なにより、ぼくはあそこの空気がたまらなく嫌いだった。みんな、我こそが受験で勝ち残るんだって表情で血眼になってテキストに貪りついて、なんだか見ていられない。一生懸命勉強して、良い大学に入って、良い企業へ勤めて……そんな、決められたレールに沿った人生なんて……。
 決められたレールに沿った人生――ぼくだって、本当はそうだ。ぼくの両親は高学歴で、いいところに勤めてて……だからぼくと兄にも同じ道を歩ませようとしている。いや、兄に関しては、もう両親の予定通りに理系の超一流大学へ進学した。理系――ぼくの両親は、理系のほうが優れていて、文系は負け組みなんだって、ぼくが中学生になるくらいからことあるごとに言ってきた。
 だけど、ぼくはその期待を裏切った。今年で高校3年、ちょうどクラスが文理分かれる年だ。そしてぼくはここ文系クラスに在籍している。そういうことだった。ぼくは数学が出来なかった。それを両親は心底嘆いて、勘当すらされそうな勢いだった。「このまま理系でいっても、中堅私立にすら受からないぞ――」なんて言って、結局、文系でも偏差値的には兄に劣らないくらいのところへ進学するという約束と一緒に、文系クラスへ行くように決められた。
 こうしてサボっているようじゃ、その約束も果たせそうにないかな……なんてつまらない物思いに耽っていると、気付かないうち、目の前にひとりの少女が立っていた。ちょうど日陰になる位置ではっきりとは見えなかったけど、静かな微笑みを湛えた様子で、彼女は言った。
「――ねぇ。あなたは、運命を信じる?」
――運命。単刀直入に言って嫌いな言葉だった。これから起こること全てが何もかも決められているだなんて思いたくない。今ぼくがすぐにでも逃げ出したいと感じているこの生活が、ずっと昔、それこそぼくが生まれるよりも遥かに前から決まっていたんだとしたら――
「そんなの、信じたくない」
 唐突過ぎる問いかけにも自然に答えられたのは、ちょうどぼくが似たようなことを考えていたからかもしれない。だけど、殆ど馴染みのない少女に急に話しかけられて、運命がどうとかって……ぼくには、この子がよくわからない。
「そっか……。でもね、わたし達のこの出会いは、運命なんだよ?」
「なんだよ、それ……。いまこうして君と喋ってることが、あらかじめ決められてたって? 馬鹿馬鹿しいったらないよ――」
「本当にそうかなぁ? ねぇ、ここは学年でひとつの文系クラス――」
「そんなの知ってる。当たり前じゃないか」
 何を言い始めるのかと思ったら……ここは文系クラス――ぼくが毎日劣等感に苛まれる原因のひとつじゃないか――よく、知っている。
「去年わたしは文系に行くことを選んだ。あなたも同じ。ほらね、わたし達の出会いは、去年にはもう決まっていたの」
 悪戯っぽく笑ってみせるけど、その瞳は真剣だった。だから、あまり茶化す気にもなれなかった。
「そんなの……でも、今日この場所でこの時間に君と喋ってるのは、偶然だ。決められていたわけじゃないよ」
 でも、ある意味ではそういうのも運命と呼べるかもしれないな……と、少しだけ思った。
「えへへ、それも違うんだ。あのね、わたし、あなたが今日この時間にこの場所にいるってことを知ってた。あなたはいつも、毎週決まって水曜日は放課後にこうして教室に残っていたから……。だからわたしも今日ここに来たんだよ。あなたと話すために。わたしがそう決めた。だから、これは運命」
「そんなのもっとおかしいじゃないか! 君が決めたから運命? なんだよそれ……君は神様か何かなのかよ……わからないよ、ぼくには……」
 本当にわからなかった。単にこの子は頭がおかしいんじゃないかとさえ思えてきた。
「あなたが信じたくないって言う運命と、わたしが信じている運命とは、やっぱり少し違うものみたい。あのね――」
 そこで言葉を切ると彼女は後ろへ向き直り、もう殆ど沈んでしまってる夕陽へと目をやった。窓が開かれて、重苦しい教室の空気が中和されていく。
「運命を信じる――それはね、自分を信じることなんだ。次の瞬間に起こること――それは、今のわたしが選んで、決めたことなんだ。わたしが選んだ運命……わたしは、自分が選んだことを信じる。例えそれが悪い結果を生んだとしても、ちゃんと受け入れる。その選択をしたことを後悔してないんだって、胸を張って言える。それが、運命を信じるっていうこと。わたしがしたいことは、わたしが決める。――もちろん、何もかも自分の思う通りにはいかないよ。だって、この世界に生きて、何かを感じて、考えて……そして何かを選んでいるのは、わたしだけじゃない。たくさんのひとが、ううん、ひと以外だってそう。みんな何かを選んでいる。そういう、みんなの選択が寄り集まって出来たものが運命なんだ。ずっとずっと太古の昔から、世界はそうやって回ってきた。地球で最初の男女が果実を分け合うことを選んだから、人類が、その罪深い運命が生まれたの……って、これはおとぎ話だけどね」
 そこまで言うと、彼女は窓から少し身を乗り出して、夕陽へと手を伸ばしながらけらけらと笑った。
「――だけどね、そうやって、今までになされた全ての選択があって、今のわたしがいるんだ。そして、わたしにだって、選ぶことが出来る。運命の一部を成すことができる。わたしは自分の選択に自信を、責任を持つ。それはね、自分以外のものの選択を尊重することでもある。だからわたしは、今を肯定できる。不条理なことばかりのこの世界を、愛することが出来る。それは、自分を信じているから。運命を、信じているから」
 長い話を終えて、彼女はぼくの方へ振り返った。もう夕陽はほとんど沈んで辺りは暗くなってしまった。だからその表情を窺うことは出来ないけど、たぶん彼女はまた笑っているんだろう。それは強者の笑みだ。自分に対する自信から来る笑みだ。だから彼女の顔が見えなくて良かったと思った。今のぼくには眩し過ぎるから。
「ぼくは……そんなに強くないよ。自分の選択に自信を持つなんて……そもそもぼくは、自分で選べてすらいないんだ。君はさっき、ぼくが文系クラスへ行くことを選んだと言ったけど、そうじゃない。本当は、理系に行きたかったんだよ。だけどぼくには数学の才能がなかった。それでも期待に応えたくて……だけど、それは叶わなかった。文系クラスへ進学したのはぼくの両親の選択だ。ぼくじゃない。だから、この出会いは……ぼくにとって、運命じゃない――」
「わたし、知ってるよ。あなたはね、ちゃんと自分で選ぶことが出来るひとだよ。だって、去年のあなたは、すごく輝いてた。ねぇ、わたし、去年はクラス委員をやっていたの。覚えてないかなぁ?」
 そうだ……少しだけど、覚えている。確かにこの子は別のクラスで委員をやっていた。今よりもっと大人しそうだったから印象が一致していなかったのかもしれない。当時はぼくもクラス委員で、その中の委員長でもあって――挫折をする前だったから。きっと、今とは別人みたいに振舞えていたに違いない。自分に自信を持って……今、目の前にいる彼女みたいに。
「確かに、今のあなたは、ご両親の選択に従っているだけかもしれない。だけど、それに応えるんだって、そう選ぶことも出来る。それに、今から一生懸命勉強したら、数学だってちゃんと出来るようになるかもしれない。それを決めるのはあなた。そしてあなたは、それが出来るはずだよ。今のあなたは、なんだか抜け殻みたいで……わたし、見ているのがつらいの。自分で選ぶことを放棄したら、運命から、世界から放り出されちゃうよ。あなたの行く末を決める選択を、あなた以外のものにだけ任せちゃったら、そこにあなたはいなくなってしまう。選ばないと、選ばれることもなくなってしまう。そうして段々透明になって……わたしは、そんなの嫌だよ」
 いつの間にか彼女はぼくの目の前にいて、だからその表情をなんとか覗き見ることが出来た。彼女は、笑っていない……それどころか、置き去りにされた、泣き出しそうな子供みたいに悲痛な……そういえば、去年の彼女はいつもこういう表情をしていた――
「どうして、そんな顔をするの」
「あのね……わたしは、あなたが好き。あの時――あなたは覚えていないかもしれないけど、透明になりかけてしまっていたわたしを、あなたは外へ引き上げてくれた。あなたは、わたしを選んでくれた。ねぇ、それはあなたの意思じゃなかったの? あなたは、今の自分を否定する? 今までのたくさんの選択を……全部――」
 彼女はもうほとんど叫んでいた。それでも、最後のほうは聞き取れないくらいにか弱い声になっていて……さっきまでの自信に満ちた雰囲気は微塵も感じられず、どんどん存在が薄れていっているような気さえした。
「ぼくは……」
 ぼくは、どうだっただろう……そうじゃない、ぼくは、どうしたいだろう――自分で選ぶ、そしてその選択に自信を、責任を持つ……それはどういうことなんだろう――
「わからない。ぼくは、どうしたらいいんだろう?」
 彼女は、今度は今までで一番の笑顔を見せて言った。
「わたしは、あなたを選ぶ。だから――」
 ぼくのほうへと手を差し出す。

「ねぇ……わたしを、選んで」






――ともすれば『輪るピングドラム』の二次創作にも捉えられそうなもんですが、そういうわけではありません。いや、ピンドラに触発されて、というか、ピンドラを見て「運命ってなんぞ」と改めて考えて出てきたことを、何かしらかたちにしようと思った結果、こういう形式を取るのがいいかなーと。
 しかしながら、ネットの海に放流した瞬間にイカスミをぶちまけられるような具合に黒歴史化しそうなものを書いてしまった……それでもマジメに書いたので読んでもらえたなら嬉しいです。そう、あなたがこれも読んでいるのもまた運命……おれは書いた……そしてあなたはクリックした……。
 でまぁボクチンはまったくもって決定力がなく自分に自信もないのでアレなんですが、こんな女の子に夕暮れの教室でふたりっきり「わたしを、選んで」とか言われたら、迷わず手を取るどころか、そのまま抱きしめて「ぼくは君を選ぶよ……さぁ、ひとつになろう、ひとつの運命に――」とか、いや、なんでもない……っていうかこの女の子ほぼおれじゃねぇか……。