作曲とは

「――最近、いまいち曲が書けない」

 いや、「曲」としての体を成すだけの音の羅列であればいくらでも作れるのだ。もしかしたらその曲を好きになってくれるひともいるかもしれない。某アイドルグループが歌えば初日でミリオンヒットになる程度の曲であるのかもしれない。

 それでもぼくが「曲が書けない」と嘆くのは、それは端的に言えば、「(自分で心底良いと思えるだけの)曲が書けない」からなのだ。
 これは非常に重要なことで、そもそもぼくが曲を書くことのモチベーションは、(当たり前ではあるが)なんといってもそれが「楽しい」からに他ならない。

 では具体的にどういう部分が「楽しい」のかというと、それは実は「つくる」という行為自体ではない。

 どういうことだ、と思われるかもしれない。無論「つくる」こと自体にも楽しさはある。しかし、ぼくが真に楽しんでいるのは、自分のつくったものを「聴く」ことであったりする。

 思いついたメロディを鳴らして、それをコードに乗せて、ドラムを入れて、ベースを入れて、ピアノを、ストリングスを、ギターを……と、自分が普段聴いているような―例えばアニメのOPで流れるような―「楽曲」としてつくり上げていく。それまで自分の中でわだかまっているだけだったモノが具体的なカタチを得て顕現していく。
 その「つくる」過程で、ぼくは何度となく自らが生み出した音楽と対面する。その瞬間こそが何よりも「楽しい」。
 つまり、「つくること」のモチベーションが「聴くこと」のそれと一致しているのだ。「聴くためにつくっている」と言って良いかもしれない。自分でつくったものではあっても、本当に良いと思えるものは何度聴いても鳥肌が立つ。
 しかし、ずっと昔につくった曲などは、やはり完成度が低いものだったりする。現在進行形でつくっている曲にしても、メジャー流通している楽曲たちに比べたらお粗末極まりないものだろう。それでも、その不完全さすら愛しい。この気持ちは、「つくる」ことも十分に楽しんでいる証拠のようにも感じる。

 うん、まとめると、自分が何度も何度も聴きたいと思えるメロディでないと、「楽曲」としてつくり上げるに至るだけの作業をこなすモチベーションが保てないということだ。
 そう考えると、「心底良いと思う」ハードルが上がったのかもしれない。逆に、ハードルを越えるための力が衰えているだけのかもしれない……。

――まぁ、なんにせよ、そういうわけで最近いまいち曲が書けないのです。そこで、なにか別の形でのモチベーションを求めて、ぼくが最も尊敬する音楽家(ひいてはクリエイター)のひとりであるところの、麻枝准大先生の「作曲技法」について、自分なりに考察してみようと思ったのである。


・余談

 うまく組み込めなかったのでここで少し触れておくと、自分のつくったものを「誰かに聴いてもらう」こともまた最高の楽しみである。これについてはまたいつか細かく記事にするかもしれない。




……と、以上は『「麻枝准流作曲技法」考察』(仮)という記事の導入として書いていたものなのだけど、予想以上に長くなってしまったのでわけることとした。