所謂「技術力」と「表現力」とは相反する概念であるのかという問題

 結論から言おう。このふたつは決して相反するものではなく、むしろ相互補完的な、あるいは"まったく同一のもの"だ。と少なくともぼくは思う。

 ぼく個人の畑で例を取ってみるが、ことギターの演奏において、「技術力」と「表現力」とは常に対立した関係にあると考えられていることが多いように感じる。

 ここでの「技術力」というのは、極端に言ってしまえば「速弾き」のスキルのことだ。(「速弾き」というのは読んで字のごとく「速く弾くこと」である。指先や手首などを速く正確に動かすことが求められ、一般的に鍛錬な練習を必要とする。相応の訓練が不可欠であり、またその習熟度が目に見てわかりやすいなどの点から、ギターを演奏する上での「技術力」として取り上げられることが多いのだろう。)

 そして「表現力」というのは、よく聞かれる「泣きのギター」といった言葉に代表されるような、聴くひとにエモーショナルな感慨を与える演奏をする力である。(こう言うと非常に主観的な概念に思われるが、一般的にはチョーキングやヴィブラート、あるいは独特なリズムのズレといった、細かいニュアンスを操作する技術を指すことが多い。)
 ……と、この時点で既に結論の根拠がだいぶ見えてきたのではないだろうか。

 「細かいニュアンスを操作する"技術"」と言ったが、つまり、「表現力」というのは実は「技術力」に他ならないのである。
 もっとわかり易く言えば、「"ある表現"を実現するために必要な力(=表現力)」が「技術力」ということになる。


 そもそも、"「表現」されたもの"というのは、「感情的」であるとか「人間的」であるとかに限定されていない。「"機械の様に正確無比な"表現」も存在すれば、「"泥臭い人間味に満ちた"表現」も存在するのが当たり前だ。「"聞き取れないほどに速く弾く"表現」や、「"耳を塞ぎたくなるほどに拙く弾く"表現」も然り。

 「このひとの演奏はなんだか機械じみていてまったく人間味がない。速弾きはすげーしテクはあるけど表現力がまったくないんだよね」なんて、ギターキッズの間では何度となく交わされてきた会話の一幕だろうが、ここまで読んで頂いた方にはこの発言が持つある種の意味不明さ加減がわかっていただけると思う。
 というのは、当のギタリスト本人が「"機械じみた"表現」を意識していたとすれば、「人間味がない」というのは実に嬉しい褒め言葉だろう。
 しかし他方で、当のギタリスト本人が「"人間味に溢れた"表現」を目指して演奏していたのにも関わらず、万人から「機械じみている」と受け取られてしまったのであれば、これは確かに"「表現力」がない"と言ってよいかもしれない。また、「テクはあるけど」と言うが、「表現者自らの目指す表現」が果たされていない以上、技術的に不足している部分があるのも間違いはないだろう。

 つまり、「表現力」「技術力」について語るためには、「その演奏(=表現されたもの)が目指していた表現」という尺度が必要になるだろうということだ。極端に言ってしまえば、表現者自身が、「自らのイメージ通りに表現することが出来たか否か」によってのみ「(自らの)表現力の有無」を判断することが出来るのかもしれない。
 しかし、「表現」する以上は他人へ伝わらなければまったく意味はない。自分にのみ伝われば良いのであれば、そもそも自分の外へと出力する必要がないからだ。
 
 個人的に、よく言われる意味での「表現力」はイコール「技術力」であると考えているが、敢えて別の何かを「表現力」と呼ぶなら、それは、表現者自身の持つ「"こういう表現がしたい"というイメージ」なのではないかと思う。
 そのイメージを相手へ伝わるように表現する為に「技術力」が必要になるのだ。「抵抗値」のようなものと言っても良いかもしれない。そう考えると、色々な経験と照らし合わせてみて納得のいく部分が多々あるのではないだろうか。
 「自分には伝えたいものがあるのに、それを表現する力が足りない……」というのは、まさにぼく自身がこの文章を書きながらも切迫して感じていることだ。

 余談だが、ぼくの音楽の恩師である中学時代の先生の言葉で、今でも胸に留めているものがある。
 『「基礎練習とかを一生懸命やっていろいろなことが出来る技術が身に付きました。ではこれから何を演奏しましょう」じゃあないんだよ。「俺はこういう音楽がやりたい。こういう演奏を聴いてもらいたいんだ」っていう欲求がまずあって、その理想を叶える為に必要な技術を身に付けるのが"本当の練習"なんだ』
 ……大体こんな感じのことだったと思う。この先生は他にも様々な至言をぼくに残してくれたのだが、それはまたの機会に。



 「表現力」なんてものを語るのはそもそもナンセンスだ、という前提を考慮しても、やはり我々は自らの受け取ったものについてあれこれ考えざるを得ない。結局は全て「好み」の一言で片付けられるとは思うのだが、なかなかそう割り切れないのが現実だ。
 ここまで偉そうな言葉を並べてきたぼく自身も、「こいつ下手」とか「上手すぎワロタw」みたいな超主観的な感想を日々抱いているし口にもしている。だから、「こいつ技術力だけじゃんw」とか「表現力がヤバい」みたいなことを言うひとを非難しているわけでは決してないというのはわかって頂きたい。
 
 つまりは、表現者の意図をまったく汲まずに表現力だとかについてあれこれ言うのはナンセンスだし、かと言って自分の表現したものについてそれを消費するひとへ正確に読み取ることを強要するのもナンセンスだし、この記事みたいなのも至極ナンセンスで、普通に思ったことを思ったまま言えばいいと思います。 

 だけどこういうことを考えてみるのもたまに良いんじゃないかなぁ、と個人的には思うのです。
  

セーラー服を着たオバケ

 本日2月22日をもって全受験日程が終了したわけだが、果たして何が"終わった"のだろうと考えてみると、なかなかしっくりくる答えの浮かばないこと。
 最終科目の試験終了を告げるチャイムを聞いて、ああ、これで終わったのかと一応は思ったものだ。しかし、そうこう考えながら教室内をぐるりと見回しているときに、もっと違う、そしてもっと大きな"何か"が終わっていたような気がしたのだ。
――なんだかすごくマジメなことを語ろうとしているようだが、これからぼくが書こうとしているのはほんとうに馬鹿げたことで、ある意味ではいつも言っているようなことなので、まぁ軽い気持ちで読んでもらえたら幸いという感じである。

 「女子高生は死んでしまった」
……ほらね?
 端的にぼくはそう思いました。そして涙さえこぼれるかと思いました。それほどにぼくは悲しかったのです。
 「ここにいる女子高生達は、もうあと一ヶ月もすれば大学生に――そうでなくとも"女子高生ではない何か"に――なってしまうんだ」
 ほんとうに馬鹿げているけども、ほんとうにそう思ってしまったんだから仕方がない。
 思うに、"女子高生"というのは、それだけで、ただそうあるだけでどうしようもなく尊いのだ。彼女達の周りには、何者にも侵すことの出来ない、ある種の殻のようなものが確かに存在しているのだ。それは可愛らしいセーラー服のかたちをしているのかもしれないし、あるいはまったく無形であるのかもしれない。いずれにせよ彼女達は、そういうある種の絶対的な"聖域"に生きている、とぼくは思う。
 「処女厨」という言葉があるが、つまりはそれと似たようなものなのかもしれない。しかし、女子高生が処女であろうとなかろうと、先程のこととはまったく無縁極まりない。汚らしい男共の欲望などでは、彼女達を真に"侵す"ことは決して出来ない。
 それほどに強固な、そして高貴な殻に守られた彼女達も、いつかはその境界を越えるときがくる。
――とき。そう、"時"だ。そして、そのときが来たように、今日のぼくは感じたのだと思う。
 ぼくの周りにいた女子高生達、それが、試験終了のチャイムと同時になにか別のものになってしまったような気がした。それでも彼女達はもちろん可愛い。普通に。ペロペロしたい。
 だけど、そこにいたのは"女子高生"ではなく、ただの"セーラー服を着た女の子"でしかなかった。少なくとも、ぼくにはそう感ぜられるようになってしまった。それがどうしようもなく悲しかった。

 果てしなく身勝手な話だ。こんなことをマジメ腐って書いているおれを世の女子高生達は笑うだろう。「キモい」。それもいい。コウフンするからね! 


 こんなことを書いてどうするのかというとそれはほんとうにどうしようもないが、結論を言えば女子高生は神で、女子高生は可愛いし、女子高生は素晴らしくて、女子高生が、愛しい。

 諸君、私は女子高生が好きだ。

一月一日の朝に吐く息は白い

 吐いた息とその白さが教えてくれることみっつ。ここはすごく寒いのだということ。ぼくらはここに生きて呼吸しているのだということ。ぼくよりもきみのほうが体温が高いのだということ。最初のひとつはどうでもよくて、いまのぼくにとって重大なのは、残りのふたつ。
 初詣へ行った帰り、ひと気のない寂れた路地をふたり手を繋ぎながら歩いた。吐く息は白く、目の前をまっしろに塗りつぶしながらひたすら前へと。そうしてただまっしろなほうへと進んでゆけば、ぼくらの目指すところにたどり着ける気がしていた。そうするうちに辺りはどんどんまっしろになって、繋いだ手のぬくもりにしかきみを求めることができない。いますぐにきみを抱きしめることができたなら。ずっとそう願いながら、それでも、ただ前へと進んだ。
 目が覚めてから、ひとり部屋の隅でギターを弾いた。誰に聞かせるでもない雑然とした音色。リードもバッキングもない独り善がりな演奏。自慰行為にも似た反復運動を繰り返しながら、スティール弦の乱暴な響きは部屋全体を震わせ、薄い壁を越えて外へと滲み出ては消えた。それでもひとつだけ、越えられない壁は残る。
 しばらくして、思い出したように初詣へと向かった。ひとりの身体は人波に乗るには少し軽すぎて、瞬く間に飲まれ弾き出されてしまう。結局それらしいことはなにもできないまま、気付けば神社の裏口へと放り出されていた。それから当てもなく寂れた路地を道なりに歩いて、はぁ、と大きなため息で目の前をまっしろに塗りつぶしてから、ふと、今朝見た夢のことを思い出した。
 吐いた息とその白さが教えてくれることみっつ。ここはすごく寒いのだということ。ぼくはここに生きて呼吸しているのだということ。ぼくの目の前をまっしろに塗りつぶすのは、ぼくの吐いた息だけなのだということ。
 最初のふたつはどうでもよくて、いまのぼくにとって重大なのは、たぶん、最後のひとつ、唯それだけ。




 新年あけましておめでとうございます。よしきです。

 今年は友達と酒飲みながら徹夜で(教えてもらいつつ)麻雀して日付変わるタイミングで初詣してまた麻雀してバイトして今という具合に年を越しました。なので先の文章は基本的にフィクションです。
 ぼくのことをある程度知っている方はもう理解しているかもしれませんが、先の文章を端的に要約すれば、「平沢唯ちゃんと初詣する夢見て死にたい」という具合になります。上記の通り、ぼくはまだ新年になってから寝ていないので夢とか見ようもないのですが、まぁ、あんな電波を放てる程度には死にたいのでしょう。
 昨年とうとう二十歳を向かえ目下に成人式を控えた前途ある若者が新年早々「死にたい」とか連呼するのはいかがなものかと思わなくもないのですが、ここ最近、より一層<「死にたい」と思うことはむしろ良いことだ>という考えが大きくなってもいるのです。
 だって、「生きたい」と思ったらその瞬間成仏しちゃうんじゃん!?(あのアニメそんな話だった!?)
――それはそれとしても、これは言葉の綾というか、ひとによる細かな語義の違いみたいなものだとも思いますが、「死にたい」って実は「生きたい」ってことなんじゃん? 
 ぼくが「死にたい」と思うのは、基本的に「リアルってクソゲーじゃね? 二次元行きたくね?」というようなときで、つまりは<「生きる」ということを完全に放棄したい>とは思っていない。むしろ<「ここではないどこか」で「生きたい」>という意味を多分に含んでいる。
 「死にたい」と思えるうちは良い。「もう何も不満がない、完全に満たされているぞ」という状況になったら、それこそもはや死ぬしかやることがなくなってしまう。満たされるということは欲求が枯渇するということ。それって、「生きる目的」がなくなることに等しい。だから、ぼくは死ぬまで貪欲になにかを求め続けたい。というよりは、求め続ける限りは生き続けたい。それはとてもつらいのかもしれないが、死ぬまで「はぁ平沢唯ちゃん。あぁ死にたい」と嘆き続けていたい。
 平沢唯ちゃんと一緒にギターを弾けないのなら生きている意味がない。死のう」と思ってほんとうに死んでしまったら「平沢唯ちゃんと一緒にギター弾きたい」という欲求も死んでしまうのでぼくは平沢唯ちゃんとギターを弾きたいと思うために平沢唯ちゃんと一緒にギターが弾けない世界で平沢唯ちゃんと一緒にギターを弾きたいと血の涙を流すために生きるのです?
 まぁ、そのへんの話はかなりどうでも良くて、『映画けいおん!』はやっぱりすごく良いと思うのでもっと観たいです。見所はやはり平沢唯ちゃんの唇です。今年もよろしくお願いします。
 

クリスマス・イヴにリア充は爆発する

 「ねぇ、秒速5センチなんだって」

いつかのクリスマス・イヴ。真っ白に染まった夜の町を窓ガラス越しに眺めながら、彼女はぼくにそう言った。

――あれは、所謂”リア充爆発現象”――精神的充実による後天性体細胞結晶化症候群――の流行が始まった頃のことだ。ぼくと彼女とは、道路に面してとなりあった家に住んでいて、幼い頃から家族ぐるみでの付き合いを持っている、そう、言うなれば幼馴染というやつだった。
 だからその日も――12月の末にしては珍しく暖かい、クリスマス・イヴの日も――ぼく達家族は彼女達家族の家にお邪魔して、合同でクリスマス・パーティをしていた。彼女の家にはそれはそれは大きなクリスマスツリーがあって、ぼくはもちろんのこと、ぼくの3つ下の弟も、この時期に彼女の家へ遊びに行くのをほんとうに楽しみにしていた。
 その日は午前のうちから皆で飾り付けをして、だから、たくさん遊んでたくさん美味しいものを食べたあと夜になってからも、弟は嬉しそうな顔でツリーにへばり付いたまま離れないのだった。
 それをいいことに、ぼくと彼女とは、ふたりきりで、窓辺から”真っ白に染まった”町を見下ろしながら、ただじっとそうして、楽しいパーティの余韻に浸っていた。
 そのときだ。窓ガラスの向こうへと向けた視線は動かさないまま、不意に彼女が口を開いた。
「ねぇ、秒速5センチなんだって」
 一瞬、彼女がなにを言ったのかわからなくて、え、なあに、と聞き返す。すると、
「秒速5センチなんだって。リア充の爆片が落ちるスピード。秒速5センチメートル
と、静かに、そっと囁くように、彼女は言葉を続けた。その声は、どうしてか少し怖い印象をぼくに与えた。それがどうしてなのか、ぼくにはまったくわからなかった。彼女の声は、こんなにも透き通って綺麗なのに。


 所謂”リア充爆発現象”――精神的充実による後天性体細胞結晶化症候群――この病について、少し話してみようと思う。 
 これは、異性間の交流により生じた精神的充実感がある一定の閾値――これについて正確な値を求めることは不可能であるとされているのだが――を越えると、全身の細胞が白い雪のような結晶と化す病で、一度発症したが最後、結晶化した身体はやがて派手な様子で崩れ散ってしまう。この症状から、既存のインターネットスラングと結びついた、”リア充爆発現象”などという呼称が一般化している。
 最初の発症者が発見されたのは今から10年くらい前で、それから年を経るごとにどんどん発症者が増加する中、有力な治療法等も一向に考案されず、ぼく達人類がこの病に対して持ち得る唯一の対処法として示されたのは、”異性間で精神的充実感を得るような行為をしないこと”ただそれだけだった。
 しかし、その認識が一般的になりつつある世の中にあってなお、人々は、精神的充実感に対する果てのない欲求から逃れることはできず、また、生命として当然のように性的欲求に駆られては互いに互いを求め合った。毎日幾人もの発症者が報告され、もはや路上で発症者が確認されたところで、誰も見向きしない、ただの自然現象だと、そういうような風潮さえもが広まりつつあった。
 そして、より多くのカップルが精神的充実感を得る時期になると、町には、結晶化し飛び散ったリア充達の”爆片”が積もり積もってゆくのだ。
 例えばゴールデンウィークや夏季、冬季の長期休暇中。特に、クリスマスやバレンタインといった、現代日本においてカップルのために存在する、と言っても差し支えないようなイベント事については尚更のことで、だからクリスマス・イヴなどは、ここ数年、年中でもっとも数多くの発症者が確認される日であり、夜を迎えるころには町中がリア充の爆片で埋め尽くされ、町はまさに”ホワイト・クリスマス”といった様相を呈すのである。
 そして、それは今日――あれから幾年かを経たクリスマス・イヴの日――とて例外ではない。

 廃墟と化したデパートの屋上遊園地のフェンス。ぼく達は、絶望的なまでの美しさで町に積もってゆく元はリア充だった結晶を眺めていた。彼らが、どれほどの”幸せ”を抱いてその人生を閉じたのか、今のぼくには少しわかる気がした。
 「それにしても……」
 長い沈黙に耐えかねたぼくは、ほう、と白い息を吐いて、冷え切った喉を震わせた。
 「ほんとうに綺麗だ」
 こんな言葉に意味なんてなかった。だけど彼女は、しっかりとした言葉で応えてくれる。
 「うん。まるで雪みたいね」
 あの日のような”怖さ”はもう感じない。思えばあの感情は、彼女の声、言葉に対するものではなくて、当時のぼくが無意識的に幻視していた、今日、この日この夜この瞬間に向けられたものだったのかもしれない。
 だけど、今のぼくには迷いはない。言葉には出さなくても、ぼくも彼女も、きっと同じことを考えているはずだった。だからふたりでこの場所にやってきた。
 ぼく達はもうすぐ終わる。町を彩る”白い結晶”の一部になる。やがてはその輝きがまた新たな幸せを呼ぶのかもしれない。だけどそんなことはもう、関係ない。

 そして今度はぼくが言う、あの言葉を、あの日の彼女と同じ、そっと、囁くように。
 「ねぇ、秒速5センチなんだって」
 ふたりの間でずっと生きていた言葉。あの日積もった幸せのカケラ。それは、ひとつのヤクソク。
 「うん。知ってるよ」
 言葉少なに、だけど丁寧に彼女は応えた。そろそろだ、って、きっと彼女はそう思ってる。
 それがわかったから、しゃんと彼女に向き合い、黙って身体を引き寄せた。コートのウール越しには体温は伝わってこないけど、その下は、きっと何より暖かい。
 彼女の柔らかな頬を撫でる。髪が手の甲に当たってくすぐったい。そうして見つめ合って微笑みを交わしてから、そっと目を閉じた。顔が近付いて、互いの息遣いが手に取るようにわかる。

 そして、今にも唇が触れる――。

「――ねぇ。あなたは、運命を信じる?」

 夕暮れどきの教室。窓際の席に独り頬杖をついて、田園と少しばかりの民家が広がる地平線へ堕ちていく夕陽を眺めていた。時計の針は17時。いつもならもう予備校へ到着しているはずの時間だった。今日は19時を過ぎるまで講義はない。だからそれまでは自習室を利用して自学に励む――というのが模範的な受験生の姿だろう。だけどぼくは、ここ数ヶ月そう出来ずにいた。なにより、ぼくはあそこの空気がたまらなく嫌いだった。みんな、我こそが受験で勝ち残るんだって表情で血眼になってテキストに貪りついて、なんだか見ていられない。一生懸命勉強して、良い大学に入って、良い企業へ勤めて……そんな、決められたレールに沿った人生なんて……。
 決められたレールに沿った人生――ぼくだって、本当はそうだ。ぼくの両親は高学歴で、いいところに勤めてて……だからぼくと兄にも同じ道を歩ませようとしている。いや、兄に関しては、もう両親の予定通りに理系の超一流大学へ進学した。理系――ぼくの両親は、理系のほうが優れていて、文系は負け組みなんだって、ぼくが中学生になるくらいからことあるごとに言ってきた。
 だけど、ぼくはその期待を裏切った。今年で高校3年、ちょうどクラスが文理分かれる年だ。そしてぼくはここ文系クラスに在籍している。そういうことだった。ぼくは数学が出来なかった。それを両親は心底嘆いて、勘当すらされそうな勢いだった。「このまま理系でいっても、中堅私立にすら受からないぞ――」なんて言って、結局、文系でも偏差値的には兄に劣らないくらいのところへ進学するという約束と一緒に、文系クラスへ行くように決められた。
 こうしてサボっているようじゃ、その約束も果たせそうにないかな……なんてつまらない物思いに耽っていると、気付かないうち、目の前にひとりの少女が立っていた。ちょうど日陰になる位置ではっきりとは見えなかったけど、静かな微笑みを湛えた様子で、彼女は言った。
「――ねぇ。あなたは、運命を信じる?」
――運命。単刀直入に言って嫌いな言葉だった。これから起こること全てが何もかも決められているだなんて思いたくない。今ぼくがすぐにでも逃げ出したいと感じているこの生活が、ずっと昔、それこそぼくが生まれるよりも遥かに前から決まっていたんだとしたら――
「そんなの、信じたくない」
 唐突過ぎる問いかけにも自然に答えられたのは、ちょうどぼくが似たようなことを考えていたからかもしれない。だけど、殆ど馴染みのない少女に急に話しかけられて、運命がどうとかって……ぼくには、この子がよくわからない。
「そっか……。でもね、わたし達のこの出会いは、運命なんだよ?」
「なんだよ、それ……。いまこうして君と喋ってることが、あらかじめ決められてたって? 馬鹿馬鹿しいったらないよ――」
「本当にそうかなぁ? ねぇ、ここは学年でひとつの文系クラス――」
「そんなの知ってる。当たり前じゃないか」
 何を言い始めるのかと思ったら……ここは文系クラス――ぼくが毎日劣等感に苛まれる原因のひとつじゃないか――よく、知っている。
「去年わたしは文系に行くことを選んだ。あなたも同じ。ほらね、わたし達の出会いは、去年にはもう決まっていたの」
 悪戯っぽく笑ってみせるけど、その瞳は真剣だった。だから、あまり茶化す気にもなれなかった。
「そんなの……でも、今日この場所でこの時間に君と喋ってるのは、偶然だ。決められていたわけじゃないよ」
 でも、ある意味ではそういうのも運命と呼べるかもしれないな……と、少しだけ思った。
「えへへ、それも違うんだ。あのね、わたし、あなたが今日この時間にこの場所にいるってことを知ってた。あなたはいつも、毎週決まって水曜日は放課後にこうして教室に残っていたから……。だからわたしも今日ここに来たんだよ。あなたと話すために。わたしがそう決めた。だから、これは運命」
「そんなのもっとおかしいじゃないか! 君が決めたから運命? なんだよそれ……君は神様か何かなのかよ……わからないよ、ぼくには……」
 本当にわからなかった。単にこの子は頭がおかしいんじゃないかとさえ思えてきた。
「あなたが信じたくないって言う運命と、わたしが信じている運命とは、やっぱり少し違うものみたい。あのね――」
 そこで言葉を切ると彼女は後ろへ向き直り、もう殆ど沈んでしまってる夕陽へと目をやった。窓が開かれて、重苦しい教室の空気が中和されていく。
「運命を信じる――それはね、自分を信じることなんだ。次の瞬間に起こること――それは、今のわたしが選んで、決めたことなんだ。わたしが選んだ運命……わたしは、自分が選んだことを信じる。例えそれが悪い結果を生んだとしても、ちゃんと受け入れる。その選択をしたことを後悔してないんだって、胸を張って言える。それが、運命を信じるっていうこと。わたしがしたいことは、わたしが決める。――もちろん、何もかも自分の思う通りにはいかないよ。だって、この世界に生きて、何かを感じて、考えて……そして何かを選んでいるのは、わたしだけじゃない。たくさんのひとが、ううん、ひと以外だってそう。みんな何かを選んでいる。そういう、みんなの選択が寄り集まって出来たものが運命なんだ。ずっとずっと太古の昔から、世界はそうやって回ってきた。地球で最初の男女が果実を分け合うことを選んだから、人類が、その罪深い運命が生まれたの……って、これはおとぎ話だけどね」
 そこまで言うと、彼女は窓から少し身を乗り出して、夕陽へと手を伸ばしながらけらけらと笑った。
「――だけどね、そうやって、今までになされた全ての選択があって、今のわたしがいるんだ。そして、わたしにだって、選ぶことが出来る。運命の一部を成すことができる。わたしは自分の選択に自信を、責任を持つ。それはね、自分以外のものの選択を尊重することでもある。だからわたしは、今を肯定できる。不条理なことばかりのこの世界を、愛することが出来る。それは、自分を信じているから。運命を、信じているから」
 長い話を終えて、彼女はぼくの方へ振り返った。もう夕陽はほとんど沈んで辺りは暗くなってしまった。だからその表情を窺うことは出来ないけど、たぶん彼女はまた笑っているんだろう。それは強者の笑みだ。自分に対する自信から来る笑みだ。だから彼女の顔が見えなくて良かったと思った。今のぼくには眩し過ぎるから。
「ぼくは……そんなに強くないよ。自分の選択に自信を持つなんて……そもそもぼくは、自分で選べてすらいないんだ。君はさっき、ぼくが文系クラスへ行くことを選んだと言ったけど、そうじゃない。本当は、理系に行きたかったんだよ。だけどぼくには数学の才能がなかった。それでも期待に応えたくて……だけど、それは叶わなかった。文系クラスへ進学したのはぼくの両親の選択だ。ぼくじゃない。だから、この出会いは……ぼくにとって、運命じゃない――」
「わたし、知ってるよ。あなたはね、ちゃんと自分で選ぶことが出来るひとだよ。だって、去年のあなたは、すごく輝いてた。ねぇ、わたし、去年はクラス委員をやっていたの。覚えてないかなぁ?」
 そうだ……少しだけど、覚えている。確かにこの子は別のクラスで委員をやっていた。今よりもっと大人しそうだったから印象が一致していなかったのかもしれない。当時はぼくもクラス委員で、その中の委員長でもあって――挫折をする前だったから。きっと、今とは別人みたいに振舞えていたに違いない。自分に自信を持って……今、目の前にいる彼女みたいに。
「確かに、今のあなたは、ご両親の選択に従っているだけかもしれない。だけど、それに応えるんだって、そう選ぶことも出来る。それに、今から一生懸命勉強したら、数学だってちゃんと出来るようになるかもしれない。それを決めるのはあなた。そしてあなたは、それが出来るはずだよ。今のあなたは、なんだか抜け殻みたいで……わたし、見ているのがつらいの。自分で選ぶことを放棄したら、運命から、世界から放り出されちゃうよ。あなたの行く末を決める選択を、あなた以外のものにだけ任せちゃったら、そこにあなたはいなくなってしまう。選ばないと、選ばれることもなくなってしまう。そうして段々透明になって……わたしは、そんなの嫌だよ」
 いつの間にか彼女はぼくの目の前にいて、だからその表情をなんとか覗き見ることが出来た。彼女は、笑っていない……それどころか、置き去りにされた、泣き出しそうな子供みたいに悲痛な……そういえば、去年の彼女はいつもこういう表情をしていた――
「どうして、そんな顔をするの」
「あのね……わたしは、あなたが好き。あの時――あなたは覚えていないかもしれないけど、透明になりかけてしまっていたわたしを、あなたは外へ引き上げてくれた。あなたは、わたしを選んでくれた。ねぇ、それはあなたの意思じゃなかったの? あなたは、今の自分を否定する? 今までのたくさんの選択を……全部――」
 彼女はもうほとんど叫んでいた。それでも、最後のほうは聞き取れないくらいにか弱い声になっていて……さっきまでの自信に満ちた雰囲気は微塵も感じられず、どんどん存在が薄れていっているような気さえした。
「ぼくは……」
 ぼくは、どうだっただろう……そうじゃない、ぼくは、どうしたいだろう――自分で選ぶ、そしてその選択に自信を、責任を持つ……それはどういうことなんだろう――
「わからない。ぼくは、どうしたらいいんだろう?」
 彼女は、今度は今までで一番の笑顔を見せて言った。
「わたしは、あなたを選ぶ。だから――」
 ぼくのほうへと手を差し出す。

「ねぇ……わたしを、選んで」






――ともすれば『輪るピングドラム』の二次創作にも捉えられそうなもんですが、そういうわけではありません。いや、ピンドラに触発されて、というか、ピンドラを見て「運命ってなんぞ」と改めて考えて出てきたことを、何かしらかたちにしようと思った結果、こういう形式を取るのがいいかなーと。
 しかしながら、ネットの海に放流した瞬間にイカスミをぶちまけられるような具合に黒歴史化しそうなものを書いてしまった……それでもマジメに書いたので読んでもらえたなら嬉しいです。そう、あなたがこれも読んでいるのもまた運命……おれは書いた……そしてあなたはクリックした……。
 でまぁボクチンはまったくもって決定力がなく自分に自信もないのでアレなんですが、こんな女の子に夕暮れの教室でふたりっきり「わたしを、選んで」とか言われたら、迷わず手を取るどころか、そのまま抱きしめて「ぼくは君を選ぶよ……さぁ、ひとつになろう、ひとつの運命に――」とか、いや、なんでもない……っていうかこの女の子ほぼおれじゃねぇか……。

<麻枝准流作曲技法>考察

  • はじめに

 タイトルの通り、この記事では<作曲家:麻枝准>の作曲技法についての私的考察を記す。
 予め断っておくが、ぼくは音楽に関して「素人」である。むろんプロではないし、趣味の範囲では作曲活動も行っているが、音楽大学やそれに類する専門教育機関に所属していた経験もなければ、著名な音楽家に弟子入りしている、などということもない。それでも常識程度の音楽理論の知識は持っていると自負しているが、これから書くことについては、あくまで「素人の戯言」だと思って読んでもらえれば幸いだ。



  • 作曲について

 「作曲」とは、その名の通り「曲」を「作る」行為であるが、では「曲」とは、一体どのように定義されるものなのだろうか。ひとまず、wikipedia先生にたずねてみたところ、

 ――楽曲とは、音楽の、続けて演奏されるひとまとまりのこと。
  
 とある。更に踏み込んで「音楽」とは何か、とみてみると、

 ――音楽は、人間が組織づけた音である。音楽は、音のもつ様々な性質を利用して、それを時間の流れの中で組み合わせて、感情や思想を音で表現することができる。

 と記されている。なかなかにわかりやすい。
 つまり、作曲とは、端的に言えば<音を組織づける行為>である。
 この記事においては、「作曲」という行為を以上のように定義し、話を進めることとする。



  • 基本的な作曲の方法について

 先述したように、作曲とは音を組織づける行為である。そう言ってしまえば非常に単純なことだが、これまでの人類の歴史においてどれほどの数の楽曲が作られてきたか、まったく想像に余りある。
 似通っている楽曲も山ほどあるだろうが、それほどまでに莫大な楽曲のバリエーションを生み出している要因は、使用される「音」に、というよりは「組織づけかた」にあると思われる。
 というのも、特に近現代音楽において、使用される音は基本的には「12個」しかない。超簡単に言ってしまえば「ドレミファソラシ」とそれらにシャープやらフラットやらが付いたかたちだ。(詳しくはwikipedia:十二音技法などを参照されたい。)
 無論、その「音」を演奏する「楽器」にはやはり莫大な数がある。しかし、かなり大雑把な話ではあるが、基本的に、あらゆる楽曲はひとつの音色のみを用いても演奏し分けることが可能である(打楽器によるリズムのみで構成される曲なども存在するが、ここでは無視する)。それこそ、ピアノが一台あれば無限に楽曲を演奏することも可能だろう。
 つまり、ある音をどれくらい伸ばすか、どんな音と組み合わせるか、などといった点で楽曲の差異は生まれ、また、作曲家自体の個性もそこに見出すことが出来る。
 これについての私的雑感なのだが、音をどう組織づけるか、というのは、かなり経験に依存していると思われる。ここで言う経験とは、それまでの人生でどのような楽曲を(意識的であれ無意識的であれ)耳にしてきたか、つまりは音の「どのような組織づけられかた」を耳にしてきたかということだ。
 超単純化した例を挙げると、「ドの次にレが来る」メロディと「ドの次にミがくる」メロディを聴いたことがあれば、「ド」に組織づける音の選択肢として、「レ」と「ミ」を得ることが出来る、という具合だ。そして実際には、これが遥か高度に複雑化されているわけである。
 そういうわけで、<麻枝准流作曲技法>とはつまり、だーまえがどういう風に音を組織づけているのか、ということであり、それについての私的考察がこの記事の本旨である。



 まず、麻枝准という人間について。この記事を目にするようなひとなら知っているであろうことだが、一応軽く触れておく。
 ビジュアルアーツ傘下のゲームブランドKeyに所属し、ゲームシナリオの執筆、またBGMや主題歌、挿入歌などの作詞作曲をも手がけるマルチなクリエイターである。近年はテレビアニメ「Angel Beats!」の全脚本を手がけ、また、OP及びED主題歌の作詞作曲、劇中に登場するバンドの楽曲の全作詞作曲までこなし、本編BD/DVD、関連音楽CD共にかなりの売り上げを記録し話題になった。また、本人も認めるところの「音楽キチ」である。月に数十万円にものぼるという大金をはたいて音楽CDを買い漁り、移動中や仕事中など、ほとんど一日中音楽を聴いて生活しているとのことだ。「だーまえ節」などと言われる彼独特のソングライティングのセンスは、先ほど話したように、この滋養に満ちた音楽体験によるところも大きいだろう。
 と、さらっと流してしまったが、<麻枝准流作曲技法>を語る上で、この「豊富な音楽体験」というのは欠かせない要素である。非常に多種多様な「組織づけかた」を耳にしてきた、というだけでも、作曲をするうえではかなり大きな強みになるからだ。
 それから最も重要な点、これもファンなら知っていることかもしれないが、彼の作曲の仕方は他人と大きく異なっている。
 「どのようにして楽曲を生み出すのか」――多くの作曲家たちの言うには、「空からメロディが降ってくる」であったり、「楽器を演奏しているとフレーズを思いつく」であったり、「歌詞の持つ響きがメロディを呼び寄せる」であったりと、基本的に、「自分で考え」て楽曲を生み出している。しかし、麻枝准はそのどれとも異なっている。
 では一体どのようにして楽曲を生み出すのか。本人の発言によると――以下は『麻枝准の殺伐RADIO 第1回目』からの引用である
D24:46〜 

――「自分にとって作曲と言うのは、生む作業ではなく拾い上げる作業」

――「とりあえずデタラメにメロディを並べてみる。ベタなコードに乗せて。自分ですら再生するまでどんな曲になっているのかわからない、という状態で再生してみて、ここをこうすればすごく良いメロディになるんじゃないか、という部分をひたすら修正していく」

――「素人でないと出来ない方法。プロは譜面を見ればどんなメロディかわかってしまうから」

――「偶然に頼り切っているので、本来なら自分から生まれるはずのない、いわば自分の才能を超えたメロディまで生まれることがある」

 など、大雑把ではあるが要点を引用した。なるほど、常識的に考えたら、誠にキテレツな作曲方法である。しかし、この方法で彼は数多くの名曲を生み出してきた。そこにどのような秘密があるのか。もしくは、ないのか。
 彼の言うとおり、並みのプロであれば譜面を見れば「それがメチャクチャな音の並び」であることはわかるだろう。そして、音楽理論的にも破綻したそれを再生することを躊躇うだろう。そこを麻枝准は超える。彼の言うとおり、ある意味で「素人」として居続けているからだ。
 彼は「偶然に頼り切っている」と言う。それは半分は正しいかもしれないが、半分は間違いである。
 シーケンスソフト上へ無秩序に並べられた「音の羅列」、それ自体は確かに偶然による産物に他ならない。しかしそれらを「良いメロディ」として秩序づけるのは、他でもない麻枝准という音楽」そのものなのだから。
――「麻枝准という音楽」と表現したが、ぼくは「ひとりの人間はひとつの音楽である」と考えている。それはこれまで何度か言ってきたように、当人の音楽経験によりつくり上げられてきたものであり、どのような音楽を生み出すのか、また、どのような音楽を「良い」と感じるか……つまりは、まぁ「好み」と言っていいのだが、もっと格好良く言いたいのだ。しょうがない。
――と、話を戻すが、ここで重要なのは、「無秩序な音の羅列に秩序を与える」という行為自体に彼の音楽が賞賛される原因があるのではない、ということだ。
 それでも、当人の想像を超えたものが生まれ得るという点でこの手法はかなりのアドバンテージを持つ。また、常人を遥かに上回るであろう規模の「音楽」を抱えている彼にとって、その多様性をより引き出すことの出来る手法でもあり得る。つまりは、麻枝准」に最適化された<作曲技法>と言えよう。
 しかしまぁ、なんてことはない。端的に言ってしまえば、だーまえが「良い」と思ったもの>だから評価されているのである。つまり、評価されているのは麻枝准という音楽」だ。
 また、あくまで自身の作品のクオリティに拘り決して妥協しない。本当に「良い」と思えるものだけを提供し続けるクリエイターとしての麻枝准が評価されている、と言っても良いだろう。
 


  • おわりに

 これだけ書いておいて、結局は、だーまえすげぇ!としか言えない自分に愕然としつつ、一度まとめてみて、この作曲技法はぼくに出来るものなのだろうかという疑問も生まれ、当初の目的はどこへやら、まぁ書いていて楽しかったし良いかとも思う。とりあえず、この方法を参考に、いちど曲を作ってみよう。
 彼の言う通り、これは「素人」であるが故に成せる方法と言って良い。何が言いたいかというと、この記事を読んでくれたあなたも、適当に音符を並べて「自分の音楽」はどういうものなのか、と少し挑戦してみるのも面白いだろう。

作曲とは

「――最近、いまいち曲が書けない」

 いや、「曲」としての体を成すだけの音の羅列であればいくらでも作れるのだ。もしかしたらその曲を好きになってくれるひともいるかもしれない。某アイドルグループが歌えば初日でミリオンヒットになる程度の曲であるのかもしれない。

 それでもぼくが「曲が書けない」と嘆くのは、それは端的に言えば、「(自分で心底良いと思えるだけの)曲が書けない」からなのだ。
 これは非常に重要なことで、そもそもぼくが曲を書くことのモチベーションは、(当たり前ではあるが)なんといってもそれが「楽しい」からに他ならない。

 では具体的にどういう部分が「楽しい」のかというと、それは実は「つくる」という行為自体ではない。

 どういうことだ、と思われるかもしれない。無論「つくる」こと自体にも楽しさはある。しかし、ぼくが真に楽しんでいるのは、自分のつくったものを「聴く」ことであったりする。

 思いついたメロディを鳴らして、それをコードに乗せて、ドラムを入れて、ベースを入れて、ピアノを、ストリングスを、ギターを……と、自分が普段聴いているような―例えばアニメのOPで流れるような―「楽曲」としてつくり上げていく。それまで自分の中でわだかまっているだけだったモノが具体的なカタチを得て顕現していく。
 その「つくる」過程で、ぼくは何度となく自らが生み出した音楽と対面する。その瞬間こそが何よりも「楽しい」。
 つまり、「つくること」のモチベーションが「聴くこと」のそれと一致しているのだ。「聴くためにつくっている」と言って良いかもしれない。自分でつくったものではあっても、本当に良いと思えるものは何度聴いても鳥肌が立つ。
 しかし、ずっと昔につくった曲などは、やはり完成度が低いものだったりする。現在進行形でつくっている曲にしても、メジャー流通している楽曲たちに比べたらお粗末極まりないものだろう。それでも、その不完全さすら愛しい。この気持ちは、「つくる」ことも十分に楽しんでいる証拠のようにも感じる。

 うん、まとめると、自分が何度も何度も聴きたいと思えるメロディでないと、「楽曲」としてつくり上げるに至るだけの作業をこなすモチベーションが保てないということだ。
 そう考えると、「心底良いと思う」ハードルが上がったのかもしれない。逆に、ハードルを越えるための力が衰えているだけのかもしれない……。

――まぁ、なんにせよ、そういうわけで最近いまいち曲が書けないのです。そこで、なにか別の形でのモチベーションを求めて、ぼくが最も尊敬する音楽家(ひいてはクリエイター)のひとりであるところの、麻枝准大先生の「作曲技法」について、自分なりに考察してみようと思ったのである。


・余談

 うまく組み込めなかったのでここで少し触れておくと、自分のつくったものを「誰かに聴いてもらう」こともまた最高の楽しみである。これについてはまたいつか細かく記事にするかもしれない。




……と、以上は『「麻枝准流作曲技法」考察』(仮)という記事の導入として書いていたものなのだけど、予想以上に長くなってしまったのでわけることとした。